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パレスチナといえば半世紀以上におよぶイスラエルとの抗争がすぐに頭に浮かびます。でも歴史の宝庫、聖地パレスチナの複雑な歴史や紛争の経緯をしっかりと把握することはなかなか容易なことではありません。現在、イスラエルとパレスチナが位
置する地域に、今から約三千年前からヘブライ人の王国が興りました。サウル、ダヴィデ、ソロモンの王朝です。しかし絶頂を極めたヘブライ人の王国も、ソロモンの死後、南北に分裂、その後、北王国はアッシリアに、南王国はバビロニアに滅ぼされます。その際、一部の住民は捕囚の憂き目に遭います。その後ペルシャが地域の覇権を握ると、バビロンの捕囚から解放された南王国系のヘブライ人たちは故郷に帰還、そこでエルサレムを再建、またユダヤ教団を発足させます。
その後、ギリシャの時代を経て、イエスの時代以降、聖地は反抗空しくローマの版図に組み込まれます。ローマの支配下で大半の住民たちは次第にキリスト教徒となります。そしてさらに新興のイスラム教の波が地域を襲います。ユダヤ教、キリスト教に固執した人を別
として、今度は住民の多くがイスラム教徒となります。その後、十字軍の嵐が地域を襲いますが、それは地域的、期間的に限定されたものでした。そのような状況の聖地に20世紀になるあたりから欧州からのユダヤ人移民が帰還(アーリアという)を始めました。ドイツ・ナチスの時代にそれは大きな波となりました。
聖地パレスチナを巡る民族模様とは、要するに、ヨーロッパから帰還を果
たしたユダヤ人たちが聖地に到着した時、目にした現地住民、つまりパレスチナ人とは、遠くユダヤの血を引きながら、イスラム教を信奉し、アラビア語を喋る異教徒だったのです。パレスチナ問題に手を焼いた英国は問題の解決を国連に委ねました。その国連分割案をユダヤ人側は受け入れましたが、アラブ側は拒否、1948年、イスラエルの建国宣言と同時に周辺アラブ諸国の軍隊がなだれ込み、第一次中東戦争が開始されました。しかし逆にイスラエル側が勝利、アラブ側は現在のガザ・西岸の地を辛うじて押さえるに留まりました。1967年の第三次中東戦争をも圧勝したイスラエルは、そのガザ・西岸のみならず、シナイ半島、ゴラン高原も軍事占領しました。こうして占領地の返還が中東紛争の根幹となりました。シナイ半島は順次返還されたので、エジプトとは和平が達成されましたが、ゴラン高原はいまだ返還されず、シリア・レバノンとの和平はいまだ達成されていません。
ガザ・西岸を順次返還し、和平を行うというのが1993年の衝撃的なオスロ和平合意でしたが、推進役のラビン首相が1996年に暗殺され、和平への方向が狂い、その後現在に至るまで混迷が続いているのが現状です。ただし和平への光明が失われたわけでは必ずしもなく、英断をもって占領地の返還さえ行われれば、和平が可能なことは当事者の皆が理解していることではあります。イスラエル・パレスチナの風土や民族模様に関心がおありの向きには、拙著「イスラエル・パレスチナ聖地紀行」(連合出版、2000年)などをご覧ください。 (山口県立大学国際文化学部助教授 小川 秀樹)
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